四柱推命の歴史
起源は明らかではありませんが、はじめに古代中国の黄河流域で陰陽説が起こりました。
陰陽説とは、万物が、剛柔、兄弟、男女、裏表があるように、主体的な性質と対象的な性質を持っているという説です。
次に、五行説が起こりました。五行説とは、宇宙の
気である万物が「木」「火」「土」「金」「水」の元素(気)で成り立っているという考え方です。
五行の性質をさらに陰陽に分類すると、十に分類され十干となります。
これは天の気であるので「天干」とも呼ばれています。
昔の人はこれに代名詞を付け、一番目は甲(こう)、二番目は乙(おつ)、三番目は丙(へい)と言うように名前を付けました。
中国の黄河流域に人々が農耕生活をするようになり、
正確に種をまき、刈り入れる時期を知るために暦という文明の知恵が生まれました。
先に昼が一番長い「夏至」と、昼が一番短い「冬至」を見つけ、一年が365日と四分の一であることを発見しました。
季節は、夏至、冬至、春分、秋分を境目に4つの季節に分けました。
太陰暦は、月の満ち欠けを基準としました。
満月の日は太陽と太陰(月)が交わる日であると考え、これが一年に十二回来ることから、十二支と呼ぶようになりました。
古代の中国の学者達は、天地間にあるあらゆる現象をできるだけ陰と陽に分類しました。
例えば、太陽と月、天と地、男と女、昼と夜、これが陰陽思想に発展して易となりました。
さらに、宇宙の五元気「木、火、土、金、水」を五行説を用いて盛衰興亡、戦略、道徳、政治、家相、人間関係に至るまで応用するようになりました。
はじめの頃は生年を基本にみていましたが、その後、生日を基準にして、
年、月、日、時の四本の柱から人間の運命と興亡、成敗、栄枯盛衰(えいこせいすい)を判断するようになりました。
この四本の柱を基にしての哲学は子平学と呼ばれていましたが、
日本に伝えられてからは四柱推命と呼ばれるようになったのです。